常々、親族が会して話しがでますのが、 忠通のあとは、3人の息子たち長男・基実、二男・基房、三男・兼実とそれぞれの子孫がそのときどきの状況に応じて摂政・関白の職を歴任します。院政から平氏政権、鎌倉幕府と権力の中枢が移りゆくなかで、摂政・関白の政治的な力は低下します。もはや「天皇の母方のおじいさま」かどうかにかかわらず、藤原北家嫡流の世襲制とされるようになりました。 今回返信させて頂いた理由ですが、質問文の中で退位された上皇陛下の事を「平成天皇」と記載されていますが、上皇陛下はご存命ですので平成天皇ではなく上皇陛下と記載するのが正しいです。何故「平成天皇」と記載してはいけないのかですが元号+天皇は崩御されたあとの「諡」(おくりな=崩御後の追号)だからです。 ところが、学校の歴史の授業では藤原頼通以降、藤原氏の名前を聞くことがほとんどなくなり、「あれ?そういえば藤原氏ってどうなっちゃったの?」状態ですよね。 都内の私立大学 文学部国文学専攻出身 奈良時代、平安時代と婚姻関係によって天皇家とのつながりを強めて権力を握り、貴族のトップに君臨した藤原氏。平安時代半ばの藤原道長・頼通親子の時代にその栄華は頂点に達します。 ところが、学校の歴史の授業では藤原頼通以降、藤原 … 百人一首で始める古文書講座【歌舞伎好きが変体仮名を解読する】 , 戦争で、家系図や、尺など焼けてしまっだとの事。 幼い時に、聞かされた記憶などから、全くの作り話には思えなくてメール致しました。, 質問とは違う内容になってしまいますがご了承下さい。 本来は、島本のようです。石碑には、島本と、記されております。 母方の祖父から伝わり本家を、継いだ叔母の話でもあります。 跡継ぎの男子が長い間生まれず、弟の藤原頼長を養子にしていたのですが、40歳を過ぎてから男子が生まれたため、頼長と養子縁組を解消して息子にあとを継がせたいと思うようになります。 今回は、道長以降の藤原氏についてご紹介したいと思います。, 上の図にある藤原忠通は、道長から5代あとの摂政・関白です。 お菓子メーカー勤務のサラリーマン 2020 All Rights Reserved. 神への供えもの、特に五色の布。(『新日本古典文学大系 古今和歌集』100ページより), 旅の道中の安全を祈って手向の神を祀った所で、諸所にあり、本来固有名詞ではないが、その中でも、奈良山・逢坂山などが有名であった。『八雲御抄』が「大和。仍チ近江ノ由範兼抄ニ見ユ」とするのもそのせいである。紅葉や花が風に散るさまを幣(ぬさ)を手向けることに見立てた表現が多く、「このたびは幣(ぬさ)もとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに」(古今集・羇旅・道真、百人一首)や「吹く風を神やいさめむ手向山折ればかつ散る花の錦に」(郁芳三品集)などとよまれた。そのほか「白雪」を「幣」や「白木綿(ゆふ)」に見立てた表現もあった。 ②…に従って。…につれて。「漕ぎ行く―、海のほとりにとまれる人も遠くなりぬ」〈土佐一月九日〉, 承和(じょうわ)12年(845)~延喜(えんぎ)3年(903)。参議(さんぎ)是善(これよし)の三男。, 学者の家系に生まれ、おさないころから漢学にすぐれ、元慶(がんぎょう)元年(877)に文章博士(もんじょうはかせ)になりました。, 宇多天皇(うだてんのう)(光孝天皇の皇子)に信頼され、従二位(じゅにい)右大臣(うだいじん)にのぼりました。, 遣唐使(けんとうし)は中国大陸の文化や情勢を学ぶために派遣されましたが、中国(当時は唐)が戦乱によりおとろえたため、寛平(かんぴょう)6年(894)、道真の意見により廃止されました。, 右大臣の菅原道真は、左大臣の藤原時平(ふじわらのときひら/しへい)とともに朝廷の中心的立場にいましたが、道真をこころよく思わない人々に「道真は娘婿(むすめむこ)の斉世(ときよ)親王を天皇に即位させようとたくらんでいる」と讒言(ざんげん)(事実とちがったことを言って人をおとしいれること)され、昌泰(しょうたい)4年(901)、大宰権帥(だざいのごんのそち)として左遷されました。また、道真の4人の息子たちも各地に左遷されました。, また、権官(ごんかん)と言って、定員外に人を増やすときは「権(ごん)」の字をつけて呼びます。大宰権帥(だざいのごんのそち)は大宰帥の権官ということです。, ※紫式部(むらさきしきぶ)の娘である大弐三位(だいにのさんみ)の呼称は、夫の高階成章(たかしなのなりあきら)の官職が大宰大弐だったことに由来します。, 道真の死後、京では道真の左遷に関与した時平や、その周辺の人々があいついで亡くなり、清涼殿(せいりょうでん)(天皇の住居)には雷が落ちます。, これを人々は、怨霊になった道真のたたりだと恐れ、鎮魂のために道真を北野天満宮(きたのてんまんぐう)(北野天神)に祭りました。, さらに、道真には朝廷から太政大臣の位が贈られ、左遷された道真の息子たちは京に呼びもどされました。, 平安後期の日記文学、『更級日記』を書いた菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)は道真の子孫です。, また、孝標女の母方の伯母には、『蜻蛉日記』(かげろうにっき)を書いた藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)がいます。, 孝標女は、後朱雀天皇(ごすざくてんのう)の皇女の祐子内親王(ゆうしないしんのう)に仕えました。同じく祐子内親王に出仕(しゅっし)した歌人に祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい)がいます。, 日記文学は「とかげいずむらさらさぬき」と覚えます。くわしくは「文学史のまとめ」のページをご覧ください。, ●参考文献 Tweets by Ogura_HyakuIchi. 奈良時代、平安時代と婚姻関係によって天皇家とのつながりを強めて権力を握り、貴族のトップに君臨した藤原氏。平安時代半ばの藤原道長・頼通親子の時代にその栄華は頂点に達します。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); Copyright© →師家(基房の子)→基通→兼実→基通→良経(兼実の子) ②模様の華麗なものをたとえていう語。「みわたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の―なりける」〈古今五六〉, 「……にそのまま従って」「……につれて」の意。「このたびは幣(ぬさ)もとりあへず手向山(たむけやま)もみぢの錦神のまにまに」(古今集・羇旅・道真、百人一首)「君がゆく越の白山しらねども雪のまにまに跡をたづねむ」(古今集・離別・兼輔)のように、「……にそのまま従って……」の意に解されるのである。 あなた様が求めている回答ではなく申し訳ございませんでした。. また、話しにでてまいりましたのが、 『麒麟がくる』 2019.12.28 前田利家とは?家紋や兜、まつや子孫・家系図について解説! 前田利家は織田信長、豊臣秀吉、豊臣秀頼に仕えた武将で「槍の又左」などとも呼ばれ、武勇や派手な兜、剛胆なエピソードなどでも人気の武将です。 ・『土屋の古文常識222』(土屋博映、1988年、代々木ライブラリー), こちらは小倉百人一首の現代語訳一覧です。それぞれの歌の解説ページに移動することもできます。, 百人一首の意味と文法解説(25)名にし負はば逢坂山の真葛人に知られでくるよしもがな┃三条右大臣, 名にしおはば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな スポンサーリンク 小倉百人一首から、三条右大臣の和歌に現代語訳と品詞分解をつけて、古文単語の意味や、助詞および助動詞の文法知識について整理しま …, 百人一首の意味と文法解説(21)今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな┃素性法師, いまこむといひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな スポンサーリンク 小倉百人一首から、素性法師の和歌に現代語訳と品詞分解をつけて、古文単語の意味や、助詞および助動詞の文法知識について整理しまし …, 百人一首の意味と文法解説(27)みかの原わきて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらむ┃中納言兼輔, みかのはらわきて流るる泉河いつみきとてか恋しかるらむ スポンサーリンク 小倉百人一首から、中納言兼輔の和歌に現代語訳と品詞分解をつけて、古文単語の意味や、助詞および助動詞の文法知識について整理しました …, 百人一首の意味と文法解説(23)月見れば千々にものこそ悲しけれ我が身ひとつの秋にはあらねど┃大江千里, 月見ればちぢにものこそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど スポンサーリンク 小倉百人一首から、大江千里の和歌に現代語訳と品詞分解をつけて、古文単語の意味や、助詞および助動詞の文法知識について整理しま …, 百人一首の意味と文法解説(28)山里は冬ぞさびしさまさりける人めも草もかれぬと思へば┃源宗于朝臣, 山里は冬ぞさびしさまさりける人めも草もかれぬと思へば スポンサーリンク 小倉百人一首から、源宗于朝臣の和歌に現代語訳と品詞分解をつけて、古文単語の意味や、助詞および助動詞の文法知識について整理しました …, 運営者 : honda 『歌枕 歌ことば辞典』片桐洋一、笠間書院、1999年, ○手向山 太宰府天満宮である事や、先祖の方々が、宮中なのか、太宰府天満宮なのかに向かわれた事、 【このたびは幣も取りあへず手向山紅葉のにしき神のまにまに】小倉百人一首から、菅家(菅原道真)の和歌に現代語訳と品詞分解をつけて、古文単語の意味や、助詞および助動詞の文法知識について解説しました。また、くずし字・変体仮名で書かれた江戸時代の本の画像も載せております。 今の私どもにとっては、どうでも良い事のようで、それ程気にも止めておりませんでした。 菅原道真 (すがわらのみちざね) 845年~903年 . じつは藤原氏は現代までずっと続いており、子孫の方もご健在です。 藤原に関することでございますが、 因みに、伯爵家の世継ぎが2007年に他界した際に祐天寺で葬儀があったので、そこに関して貴殿が関わりがあれば姻戚関係含め一族の可能性がありますが、そうでなければ残念ですが違うでしょう。, はじめまして。母方の祖母が岐阜揖斐川の宗宮家の出で、藤原の流れと聞いたのですが、そのような系流もありますか?, 私の旧姓は、島元と申します。 スポンサーリンク ①思う通りに。「天へ行かば、汝(な)が―」〈万八〇〇〉。「立つとも坐(う)とも君が―」〈万一九一二〉 〘副〙従って。まま。まにまに。「死にも生きも君が―と」〈万一七八五〉, ●まにまに【随に】 この連休に、平成天皇がご退位なせれた事から、 845年。 菅原道真 は、学者の家柄だった菅原家に生まれます。 道真の父も大学で漢詩文や歴史を教える文章博士でした。 小さいころから父に教えられていた道真。 よく、御国から御給料頂いてたこと、 平成天皇が、ご成婚の時に、御陵にご参拝された御陵に携わったり、宮司でもあったりしたようです。 趣味は歌舞伎鑑賞(2012年~) 忠通のあと、摂政・関白は兄弟とその子どもたちの間で次のように引き継がれます。 祖父は、 〘副〙 「手向け」する山の意の普通名詞。旅の安全を祈って幣を手向ける山。(『新日本古典文学大系 古今和歌集』139ページより), ①絹織物の一。金糸銀糸色糸を使って織り成した、華麗な厚手の織物。「―綾の中につつめる斎児(いつきご)も」〈万一八〇七〉 基実が若くして亡くなり、子の基通が幼かったために弟の基房が継いでいます。世襲制になり、継ぐべき子が幼い場合は兄弟でその職をまわしていくのは自然のなりゆきでしょう。, はじめまして藤原家の記事を読ませていただきました。最近になって自分の先祖がどんな人だったか興味を持ちましていろいろと自分の家系をしらべているのですが、質問としては柳原家も代々、藤原家の血を引き継いでいる皇族に入りますでしょうか?血を引いているとしたら私自身も少なからず薄く藤原家の血が入っているのでしょうか?ご返答をよろしくお願いいたします。, 明治時代に伯爵であった家系であれば、北家の支流であると見なされますが、それ以外の柳原家は各地の土着の系列です。 歌舞伎の観客のすそ野を広げるには古典教育から見直す必要があると考えているので、このブログで古文にまつわる情報を発信しております。, Follow @Ogura_HyakuIchi いつから、島元になったかは、定かでございません。 『歌枕 歌ことば辞典』片桐洋一、笠間書院、1999年, ●まにま【随・随意】 藤原氏の事でございました。 小倉百人一首から、菅家(菅原道真)の和歌に現代語訳と品詞分解をつけて、古文単語の意味や、助詞および助動詞の文法知識について整理しました。, ふだん我々が使っている字の形になおした(翻刻と言う)ものと、ひらがなのもとになった漢字(字母)も紹介しておりますので、ぜひ見比べてみてください。, ※宇多上皇(うだじょうこう)が奈良におでかけになったときに、旅の安全をいのって幣(ぬさ)をたむける山で、よんだ歌。, 今回の旅は幣の用意もできませんでした。手向山(たむけやま)の色とりどりの紅葉(もみじ)の葉を幣(ぬさ)として差しあげますので、神のお心にしたがってお受け取りください。(幣を用意できなかったのは、上皇のおでかけが突然で、いそがしかったため、という説によりました。), ※打消(うちけし)の助動詞「ず」は未然形接続です。未然形接続の助動詞は、「る・らる・す・さす・しむ・ず・じ・む・むず・まし・まほし・ふ・ゆ」の13種類です。助動詞の解説は「古典の助動詞の活用表の覚え方」にまとめました。, ※天皇・上皇などがでかけることを、行幸(ぎょうこう/みゆき)と言います。(例:今ひとたびのみゆき待たなむ), 訳)たむけをするために私の粗末な衣のそでを幣(ぬさ)として切って差しあげるべきでしょうが、道真がささげた紅葉の幣に満足していらっしゃる神が、その紅葉の幣をお返しなさるでしょうか、いや、お返しなさらないでしょう。, 古今和歌集・羇旅、素性法師:たむけにはつゞりの袖もきるべきにもみぢに飽ける神や返さむ, ※『古今和歌集』の420番目の歌が道真の和歌で、その次の421番目が素性法師の和歌です。, ※存続・完了の助動詞「り」はサ変動詞の未然形と四段動詞の已然形に接続します。サ変の未然形も、四段の已然形も、どちらも「e(エ)」の母音で終わります。したがって、母音「e(エ)」のうしろに「ら・り・る・れ」がつづいたら、まずは存続・完了の助動詞をうたがうようにしましょう。, ※動詞の活用(形の変化)については「古典の動詞の活用表の覚え方」でご確認ください。, ※「ゝ」や「ゞ」の文字は、同じ字をくり返すときに使います。漢字の場合は「々」、カタカナの場合は「ヽ」を使います。キーボードで入力するときは、「くりかえし」あるいは「おなじ」と打って変換すると出てくるはずです。ちなみに「〳〵」もくり返し記号で、たて書きで並べると「く」の字ようになります。これは2文字つづけてくり返すときに使う記号で、たとえば「つれづれ」を「つれ〴〵」と表すときに使います。横書きの場合は使えないので、スラッシュをかさねて、「\/」のようにして代用することもあります。, ※特記のないかぎり『岩波 古語辞典 補訂版』(大野晋・佐竹昭広・前田金五郎 編集、岩波書店、1990年)による。, 朱雀院(すざくいん)の、奈良におはしましたりける時に、手向山(たむけやま)にて、よみける(※宇多上皇が奈良におでかけになったときに、旅の安全をいのって幣をたむける山で、よんだ歌。), 「御幸(みゆき)の御供なれば、心慌ただしくて、幣も取りあへぬなり」(両度聞書(りょうどききがく))。次の歌(※道真の和歌が古今和歌集の420番目の歌。次の421番目の素性法師の和歌のこと)とともに昌泰(しょうたい)元年(898)十月の宇多上皇の吉野宮滝への行幸(日本紀略)の時の歌か。扶桑略記(ふそうりゃっき)によれば、是貞(これさだ)親王を除くと、大納言右大将の菅原道真が筆頭で供奉(ぐぶ)(※天皇のお供をすること)の責任者。勅命(ちょくめい)(※天皇・上皇の命令)による諸臣の献歌・献句のことも記されている。, ※詞書と注の引用は『新日本古典文学大系 古今和歌集』小島憲之・新井栄蔵、岩波書店、1989年、139ページ)によります。, ①神に祈る時のささげ物。また、罪けがれを祓(はら)うためのささげ物。主として木綿〈ゆふ〉・麻を使ったが、後には布・帛(はく)・紙などを使うこともあった。「佐保過ぎて奈良の手向(たむけ)に置く―は妹を目離(か)れずあひ見しめとそ」〈万三〇〇〉。「―とは、神に奉る絹なり」〈能因歌枕〉, ○幣 ・『新詳日本史』(2009年、浜島書店) ムカデや毛虫などの昆虫をモチーフにした前立ては、「後ろに退かない」ことの象徴として縁起が良く、戦国武将に人気がありました。, 利家の正室はまつ(芳春院)という女性で、天文16年(1547年)7月9日に生まれ、篠原一計の娘として生まれました。, 永禄元年(1558年)、数え12歳(満11歳)で従兄弟にあたる前田利家に嫁ぐと、その年に満11歳で長女の幸姫を出産します。, 記録が残る限りでは、伊達晴宗の正室である久保姫と並んで、同時代の中では最も子供を産んだ女性だと言われています。, 関ヶ原の戦いがあった慶長5年(1600年)、前田家が徳川家康に対して謀叛の疑いがかかると交戦を主張する前田利長を宥めるために自ら人質となって江戸に下り、14年間を江戸で過ごすことになりました。, その後江戸幕府は諸大名妻子江戸居住制を取り入れることになりますが、その先駆けとなったのです。, まつは才色兼備で教養があり、客観的かつ冷静に物事を判断できる優れた女性として評判でした。, 同じく良妻として名高い豊臣秀吉の正室・ねね(高台院)とは懇意にしていたという記録が残っています。, 例えば、利家とまつの婚礼の仲人をしたのはねねであったと言われていたり、お互い幼い頃からの仲良しだった、という説もあります。, また、まつは子どもが出来ない秀吉とねねのために、1歳の娘の豪姫を豊臣家の養女としました。, また晩年は一緒に温泉に行っていたことなどがわかっており、プライベートでも仲がよかったと言われています。, 利家が豊臣家の家臣として大変重宝された理由の一つに、奥さん同士が仲が良かったから、という事情もあったのかもしれないですね。, 利家は正室であるまつ(芳春院)との間に2男9女をもうけています。また、側室との間にも何人かの庶子がいたと言われています。, 嫡男の利長は加賀藩初代藩主となり、利家死後に家康と対立しますが結局は母・まつを人質として差し出し、開戦を免れています。, 関ヶ原の戦いでは西軍に属したため加賀の所領は兄・利長に渡されてしまいますが、大阪の陣では両陣営から誘いを受けつつも中立を決め込みました。, 利家の死後、前田氏は翌年に勃発した関ヶ原の合戦において、2代目利長が家康率いる東軍に味方し、100万石を超える大大名となりました。, 以後、前田氏は七日市藩、富山藩、大聖寺藩など分家を立て、その後3代利常が徳川秀忠の娘を正室に迎えてからは、江戸時代の前田家当主の半数以上が将軍家や徳川御三家、松平家などの徳川一門から嫁を娶り、将軍家である徳川家と親戚になります。, 明治維新後前田家は公爵家となり、現在は第18代目である前田利佑氏が当主となっています。, 前田利佑氏は日本郵船株式会社への勤務を経験し、宮内庁委嘱掌典職などに就いた経歴があります。, 嫡男の利長は何があっても3年間は加賀に帰ってきてはいけない。この3年で世が乱れるから。. この御陵の、後ろの方に石碑もございますが、 この兄弟の対立に加え、皇室でも兄・崇徳上皇と弟・後白河天皇が政治の主導権を巡って対立し、崇徳と頼長、後白河と忠通がそれぞれ結びつき、1156年に保元の乱が起こります。後白河・忠通が勝利し、頼長は乱のさなかに命を落とします。 藤原忠通→基実(24歳で逝去)→基房→基通(基実の子) 話の流れが、ここに書かれてある事と、似たような事でした。 前田利家は織田信長、豊臣秀吉、豊臣秀頼に仕えた武将で「槍の又左」などとも呼ばれ、武勇や派手な兜、剛胆なエピソードなどでも人気の武将です。, 前田利家の生涯や正室のまつとのエピソード、子孫・家系図についても触れながら解説します。, 前田利家は天文7年12月25日(1539年1月15日)に尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)に生まれました。荒子城城主の前田利春の4男であり、幼名は犬千代と言います。, 利家を生んだ前田氏は、もとは美濃斎藤氏の一族で、前田利家が菅原道真の末裔を主張するのもここから生まれたものと思われています。, そして14歳になると同じ尾張国の織田信長の下で小姓として働きはじめます。信長は3歳下の利家のことを大変可愛がったと言われており、資料によっては衆道(男性同士の同性愛)の関係があったのではないかといわれていた程ですが、今では不寝番として側近く仕えるほどに親しく接したというだけ、という説が有力だと言われています。, 前田利家の若い頃はとてもやんちゃだったようで、派手な着物や兜を身につけ、流行りの歌を歌いながら道を歩くような若者だったため、城下の荒くれ者ですら利家には近づかなかったようです。現代でいうとヤンキーのような若者だったのかもしれません。, ですので、「うつけ者」と言われ同じく風変わりな行動やファッションで目立っていた信長とは気が合いました。, ですが、あるときから信長は利家に対して敵対心を露にします。「刺客阿弥事件」といい、前田利家が信長の見ている前で彼が大変かわいがっていた捨阿弥という茶坊主を斬り殺してしまったのです。, 利家からしてみれば、捨阿弥という男は、信長のお気に入りということで威張っていて鼻持ちならない小者でした。, 利家やほかの織田家家臣への横柄な態度も腹が立ちましたが、それだけではなく利家の正室・まつの父親の形見である大切な刀を盗んだためとうとう怒りが頂点に達し、信長に成敗の許可を得にいきますがそれを拒否されてしまいました。, そして当てつけのように信長の目の前で捨阿弥を斬り殺してしまったので、利家は織田家から追い出されてしまい、浪人同然の貧しい暮らしを迫られました。, このときまつとの間には長女・幸姫が生まれており、生活にたいへんな苦労をしたことがわかっています。, 利家は帰参を焦り、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いかに参加し、首級をあげましたが信長には無視されてしまいました。, 翌年の美濃斎藤龍興攻めに紛れ込み、名高い敵の豪傑を打ち取ってようやく帰参を許されました。戻ってきた利家はやはりとても強かったので、「比類なき日本無双の槍」だと信長から絶賛されました。, その後は天正3年(1575)に名高い長篠の戦いで織田軍として武田軍を共にやぶり、また同じく天正3年には越前の一向一揆を信長と共に制圧しました。, 城主になったのもつかの間、天正10年に上杉景勝を攻めるために柴田勝家、佐久間盛政らと越中魚津に遠征します。, 同年6月、魚津にて滞陣中に京都では本能寺の変が起こったとの知らせが届き、利家は迅速に七尾に戻りました。また同じ頃豊臣秀吉は山崎の戦いにて明智光秀をやぶり、織田政権後継者の中で最も力を持つ家臣となっていきます。, 織田家家臣として最古参の柴田勝家と豊臣秀吉の確執は深まっていき、天正11年には賤ヶ岳の戦いが勃発します。, 利家は豊臣秀吉とも親しく、また双方の正室同士も仲良しという仲でしたが、柴田勝家は利家が若い頃に起こしてしまった「捨阿弥事件」の際の恩人でした。, ですので義をたてて利家は柴田家側につきますが、戦況をみて秀吉の軍が勝ちそうにとなると判断すると積極的に戦いに参加することはしなかったといいます。, 柴田勝家の死後利家は豊臣家家臣として活躍することになります。また賤ヶ岳の戦い後、本領を安堵されるとともに佐久間盛政の旧領である加賀国の一部を秀吉から加増され、本拠地を能登の小丸山城から加賀の金沢城に移すことになりました。, 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いなどに豊臣軍として参加し、秀吉にとっても信頼できる家臣となっていました。, 豊臣秀吉(羽柴秀吉)について!死因・年表・性格、朝鮮出兵・子孫などその生涯を解説!, 秀吉の最晩年は、後継者や自分が死んだ後の家臣についての心配がついて回りました。そのような中秀吉は前田利家に嫡男・豊臣秀頼の傅役として利家を指名し、関白である秀吉の居城・大阪城に住むことを遺言として慶長3年に亡くなりました。, その頃豊臣家では加藤清正ら武断派と、石田三成ら文治派によって家臣の対立が起こっており、一触即発の状況と言って良いほど緊張感のある状況だったのです。, 利家は武断派と文治派の仲裁役となり、家臣たちが勝手に突出した動きをしないように様々な働きをしていました。, そのような中、豊臣家家臣の分裂の危機を利用して着々と権力を増していく武将もいました、それが徳川家康です。, しかし徳川家康は福島正則や加藤清正、伊達政宗などに徳川家の者と婚約させて勢力を広めようとしていたため前田利家や石田三成、小西行長、宇喜多秀家などから糾弾され、一時はこれらの武将と家康との間で戦になるのではないかというほどでした。, 資料によれば、利家は「秀吉は死ぬ間際まで秀頼様を頼むと言っていたのに、徳川家康はもう勝手なことをしている、(中略)話が決裂すれば儂はこの刀で家康を斬る。もし儂が家康に斬られたら、お前が弔い合戦をしろ」と家督を譲った利長にいうほど、この家康の行為に対しては怒りを表していたようです。, 慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)に前田利家は病死してしまいます。利家の死の直後には石田三成が武断派武将たちによって襲撃され、また徳川家康も更に力をつけ、関ヶ原の戦いという大きな合戦という大きな流れに向かっていくことになります。, しかし利長は家康の讒言により加賀に帰らされ、その直後に謀反の疑いをかけられてしまいます。, 弟の利政は遺言に従って関ヶ原の戦いでは西軍として戦いますが、その後加賀の所領は東軍として戦った兄のものとなってしまいます。, こうして、全て利家の遺言の通りに世の中が動いていたことになったのです。人物や物事に対して非常に優れた観察力、判断力のあった武将と言えるでしょう。, 特に有名なものは「梅鉢紋」といい、「梅鉢」の家紋は、学問の神様で名高い菅原道真がよく使用していた家紋です。利家は自分のことを「道真の末裔」と言っていたようで、そのために梅鉢紋をよく使用していました。, この家紋は時代と共に変化し、後に前田家では中央の部分が刀のように見える梅鉢紋を使用するようになっています。, 一つは「五七桐紋」といい、秀吉から下賜された家紋です。秀吉は自分の家紋を家臣に多く下賜しており、「五大老」と呼ばれ自身の死後に家臣達の仲裁も頼んだ忠臣・利家にももちろんこの家紋を下賜していました。日本の硬貨にも使われている非常に有名な家紋です。, もう一つは徳川家康より下賜された「菊紋」があります。菊紋といえば現在は天皇家が使用している家紋ということで有名ですが、当時は大名たちもよく使用していたようです。, 若い頃の利家は、ケンカっ早く、変わった衣装や派手な得物を好む傾奇者と言われていました。, そんな利家が愛用していた兜は「長烏帽子形兜」といい、長烏帽子よりも小ぶりで実戦向きな「烏帽子形兜」となっています。, 烏帽子とは平安以降の成人男性が正装時にかぶっていた帽子のことをいい、円柱を左右から潰したような形をしている烏帽子形兜はその形が似ていることから「鯰尾形兜」と混同されることもあります。, 鯰尾形は両脇に目やヒレがあるのが特徴ですが、一方烏帽子形は鉢巻が巻かれたモチーフが多くなっており、前田利家はこの烏帽子の形を好んだと言います。身長が六尺(約182cm)あったともいわれる利家が、このように高い兜をかぶった様子は、周りを圧倒し、存在感を示したことは想像に難くありません。