このように北日本に存在したエミシの地方王国は非常に強かったため、朝廷はかつて出雲(島根県)の地方王国や吉備(岡山県)の地方王国などを“緩やかな上下関係”で服属させたときとは異なり、この北日本の地方王国をなかなか征服することができなかった。東北地方は“日本最大の駿馬の産地”であり、当時の馬は軍事兵器であり、この北日本王国は強力な騎馬軍団をもっていたからである。 以上、4代続いた奥州藤原氏についてザッと説明してみました。最後に簡単にまとめます。 藤原清衡. 奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と4代100年にわたって繁栄を極め、平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となった。戦乱の続く京を尻目に平泉は発展を続けた。半ば独立国であった。 その結果、この頭部は源頼朝によって死後にさらし首にされた泰衡のものであると考えられ、今に至ります。 なお、遺体の写真は以下のブログに掲載されています。 >>日本の人骨発見史5.中尊寺藤原氏四代のミイラ. 前九年の役は源義家の野望によって起きた戦いであり、戦いに勝てたのも清原氏のおかげだったた。そのため清原光頼の代理人である光頼の弟,清原武則は、関白・藤原頼通から“エミシとして初めて”鎮守府将軍に任命され、源義頼は空しく東北地方から去って行った。, この前九年の役の前半、安倍氏の当主であったのが頼時である。頼時は天喜5年(1057年)に戦死し、その息子の安倍貞任は康平5年(1062年)に敗死して安倍氏は滅亡したが、頼時の娘の1人が前述の亘理郡の豪族・藤原経清に嫁ぎ男子をもうけていた。経清は安倍氏側の中核にあり、前九年の役の終結に際し頼義に捕らわれ斬首されたが、その妻(つまり頼時の娘)は頼義の3倍の兵力を率いて参戦した戦勝の立役者である清原武則の長男・武貞に再嫁することとなり、これにともない安倍頼時の外孫である経清の息子もまた武貞の養子となり、長じて清原清衡を名乗った。, 永保3年(1083年)、清原氏の頭領の座を継承していた清原真衡(武貞の子)と清衡、そしてその異父弟の清原家衡との間に内紛が発生する。この内紛に源頼義の嫡男であった源義家が介入し、清原真衡の死もあっていったんは清原氏の内紛は収まることになった。ところが義家の裁定によって清原氏の所領だった奥六郡が清衡と家衡に3郡ずつ分割継承されると、しばらくしてこれを不服とした家衡が清衡との間に戦端をひらいてしまった。義家はこの戦いに再び介入し、清衡側について家衡を討った。この一連の戦いを後三年の役と呼ぶ。, 真衡、家衡の死後、清原氏の所領は清衡が継承することとなった。清衡は実父・経清の姓である藤原を再び名乗り、藤原清衡となった。これが奥州藤原氏の始まりである。, 清衡は、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢物を欠かさなかった。そのため、朝廷は奥州藤原氏を信頼し、彼らの事実上の奥州支配を容認した。その後、朝廷内部で源氏と平氏の間で政争が起きたために奥州にかかわっている余裕が無かったという事情もあったが、それより大きいのは当時の中央政府の地方支配原理にあわせた奥州支配を進めたことと思われる。[要出典]奥州藤原氏は、中央から来る国司を拒まず受け入れ、奥州第一の有力者としてそれに協力するという姿勢を最後まで崩さなかった。, そのため奥州は朝廷における政争と無縁な地帯になり、奥州藤原氏は奥州17万騎と言われた強大な武力と政治的中立を背景に源平合戦の最中も平穏の中で独自の政権と文化を確立することになる。, また、清衡の子基衡は、院の近臣で陸奥守として下向してきた藤原基成と親交を結ぶ方針をとった。基衡は、基成の娘を後継者の3代目秀衡の嫁に迎え入れ、院へも影響を及ぼした。その後下向する国司はほとんどが基成の近親者で、基成と基衡が院へ強い運動を仕掛けたことが推測される。[要出典], 奥州藤原氏が築いた独自政権の仕組みは鎌倉幕府に影響を与えたとする解釈もある。[要出典], 清衡は陸奥押領使に、基衡は奥六郡押領使、出羽押領使に、秀衡は鎮守府将軍に、泰衡は出羽、陸奥押領使であり押領使を世襲することで軍事指揮権を公的に行使することが認められ、それが奥州藤原氏の支配原理となっていた。また、奥州の摂関家荘園の管理も奥州藤原氏に任されていたようである。奥州藤原氏滅亡時、平泉には陸奥、出羽の省帳、田文などの行政文書の写しが多数あったという。本来これらは国衙にあるもので、平泉が国衙に準ずる行政都市でもあったことがうかがえる。[要出典], 一方で出羽国に奥州合戦後も御家人として在地支配を許された豪族が多いことから、在地領主の家人化が進んだ陸奥国と押領使としての軍事指揮権に留まった出羽国の差を指摘する見解もある[4]。特に出羽北部には荘園が存在せず、公領制一色の世界であったため、どの程度まで奥州藤原氏の支配が及んだかは疑問であるとする説がある[5]。, その政権の基盤は奥州で豊富に産出された砂金と北方貿易であり、北宋や沿海州などとも独自の交易を行っていたようである。マルコ・ポーロの東方見聞録に登場する黄金の国ジパングのイメージは、奥州藤原氏による十三湊大陸貿易によってもたらされたと考える研究者もいる。[要出典], 永久5年(1117年)に基衡が毛越寺(もうつうじ)を再興した。その後基衡が造営を続け、壮大な伽藍(がらん)と庭園の規模は京のそれをしのいだといわれている。毛越寺の本尊とするために薬師如来像を仏師・雲慶に発注したところあまりにも見事なため、鳥羽法皇が京都の外へ持ち出すことを禁じてしまう。これを聞いた基衡は七日七晩持仏堂にとじ籠って祈り、関白藤原忠通に取り成してもらい法皇の許しを得て、ようやく安置することができたという[注釈 2]。, 天治元年(1124年)に清衡によって中尊寺金色堂が建立された。屋根・内部の壁・柱などすべてを金で覆い奥州藤原氏の権力と財力の象徴とも言われる。[要出典], 奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と4代100年にわたって繁栄を極め、平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となった。戦乱の続く京を尻目に平泉は発展を続けた。半ば独立国であった。, この平泉文化は現代でも大阪商工会議所会頭による東北熊襲発言に際して、国会で東北地方の文化の象徴として引き合いにだされている[6]。, 平泉の金文化を支えたと伝えられている金鉱山は北から、八針(岩手県気仙郡)、今出山(岩手県大船渡市)、玉山(岩手県陸前高田市)、鹿折(宮城県気仙沼市)、大谷(宮城県気仙沼市)だったといわれ、平泉から東方に位置する三陸海岸沿岸に並んでいる。, 秀衡は平治の乱で敗れた源義朝の子・源義経を匿い文治元年(1185年)、源頼朝に追われた義経は秀衡に再び匿われた。, 秀衡は頼朝から出された義経の引渡要求を再三再四拒んできたが秀衡の死後、息子の藤原泰衡は頼朝の要求を拒みきれず文治5年(1189年)閏4月義経を自殺に追い込み、義経の首を頼朝に引き渡すことで頼朝との和平を模索した。, しかし、関東の後背に長年独自政権を敷いてきた勢力があることを恐れた源頼朝は同文治5年(1189年)7月、義経を長らく匿っていたことを罪として奥州に出兵。贄柵(秋田県大館市)において家臣の造反により泰衡は殺され、奥州藤原氏は滅んだ。, 平家滅亡により源氏の勢力が強くなったこと、奥州に深く関わっていた義経が頼朝と対立したことなどにより中立を維持できなくなったことが滅亡の原因となった。, 清衡の四男・藤原清綱(亘理権十郎)は当初亘理郡中嶋舘に居城し以後平泉へ移りその子の代には紫波郡日詰の樋爪(比爪)館に居を構え樋爪氏を名乗り樋爪俊衡と称している。奥州合戦では平泉陥落後、樋爪氏は居館に火を放ち地下に潜伏したが、当主・俊衡らは陣ヶ岡の頼朝の陣に出頭し降伏した。頼朝の尋問に対し法華経を一心に唱え一言も発せず命を差し出したので、老齢のことでもありその態度を是とした頼朝は樋爪氏の所領を安堵した。しかし、その後歴史の表舞台から消えた。子や弟も相模国他へ配流された。経清(亘理権大夫)以来代々の所領地曰理郷(亘理郡)も清綱(亘理権十郎)の没落とともに頼朝の幕僚・千葉胤盛の支配する所となった。, 清衡の養娘の徳姫は、岩城則道(岩城氏の祖)に嫁し白水阿弥陀堂(いわき市)を建立した。, 清綱の息女の乙和子姫は、信夫荘司佐藤基治に嫁し佐藤継信・佐藤忠信兄弟(義経の臣)の母親として信夫郡大鳥城(福島市飯坂温泉付近・現在舘の山公園)に居城した。全国佐藤姓の源の一つとなった。, 藤原秀衡の四男高衡は、投降後相模国に流罪となった。後に赦免され、しばらくは鎌倉幕府の客将のような存在であったといわれるが、正治3年(1201年)、城長茂らが幕府転覆を図った建仁の乱において、謀叛の一味に加わり幕府の追っ手によって討ち取られた。, 藤原秀衡の弟藤原秀栄は分家して十三湊に住み、十三氏(十三藤原氏)を名乗った。十三氏は鎌倉時代も残り、十三秀直の代の(寛喜元年)1229年に安東氏に滅ぼされるまで続いた。, それより大きいのは当時の中央政府の地方支配原理にあわせた奥州支配を進めたことと思われる。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=奥州藤原氏&oldid=80410530. (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 遺体の損傷は初代・清衡が一番ひどく、基衡や秀衡、泰衡の遺体は比較的、良好だったそうです。, なお、泰衡の頭部については当初、首桶に「忠衡」と書かれていたことから、頭部は藤原忠衡のものだと思われていました。, しかし、顔面部分に傷があり、釘で打たれた形跡もあることから、首桶に入っていた頭部は処刑された人物のものである可能性が高いと推測されました。, その結果、この頭部は源頼朝によって死後にさらし首にされた泰衡のものであると考えられ、今に至ります。, この調査の結果、奥州藤原氏は近世アイヌ人や鎌倉時代人より、現代京都人に近い骨格をしていることが確認されました。, また、初代・清衡と三代目・秀衡は蝦夷系の血筋が濃かったのに対して、二代目・基衡は貴族的な血筋が濃かったことも指摘されたそうです。, 一方、学者のなかには、ミイラは人工的につくられたもの、という説を唱える人もいました。, しかし、1994年の調査では、やはりミイラ化は自然に発生したもの、という結論が出されました。, これには、遺体が安置されていたところは偶然、ミイラ化しやすい環境だったことが関係しているようです。, 平安時代に栄華を誇った奥州藤原氏。その当主たちの遺体は今も中尊寺に納められています。. まずは、奥州藤原氏の歴史を簡単に。 そもそも、奥州(東北地方)は当初は蝦夷が支配する土地でした。それが1000年代に起こった前九年の役・後三年の役という東北地方の戦乱によって、藤原清衡という人物がその支配圏を手中に収めることになったのです。 詳しい経過は上の記事で解説してますので、この記事では概要だけおさらいします。 ただし、直接手を下したのは頼朝やその配下ではありません。. 【4代目】藤原泰衡. これらの種は後に植物学者・大賀一郎に託されたが発芽は成功しなかった。しかし1995年、大賀の弟子の手によって発芽が成功、5年後に開花が報じられた。泰衡の死から実に800年余の歳月を超え、蓮の花が咲いた事になる。 長男・国衡は妾腹の子であったために「父太郎」「他腹之嫡男」と呼ばれていたのに対し、正室を母に持つ泰衡は「母太郎」「当腹太郎」と称され、生まれながらに嫡子として扱われた。 11世紀半ば、陸奥国には俘囚長である安倍氏、出羽国には天武天皇の子孫である清原氏と同族の出羽清原氏という、強力な豪族が存在した。この安倍氏の 安倍頼良(安倍頼時)が陸奥守・藤原登任と対立し、藤原登任が任官されないことが多い出羽守の代理人である“出羽国のナンバーツー”秋田城介(すけ)である平氏の平繁成に出兵を要請して陸奥出羽連合軍の朝廷軍を結成し、安倍頼良のエミシ軍と鬼切部の戦い(宮城県大崎市旧鳴子町鬼首(おにこうべ))で戦った。安倍頼良は朝廷軍を圧倒し、敗れた平繁永は捕虜となり、藤原登任は断髪して坊主頭となり朝廷から陸奥守を解任された。この国家的危機のとき“朝廷のナンバーワン”である関白として50年間(半世紀)君臨して摂関政治の最盛期を現出した藤原頼通は、”国母“である姉の前皇后の病気が治ったことを理由に恩赦を発令して安倍頼良の反乱を許し、その一方で平氏と並ぶ軍事貴族の源頼義を陸奥守に任命した。この“アメとムチ”の策略で戦いに勝った安倍頼良は朝廷に恭順する態度を示し、多賀城に赴任してきた陸奥守・源頼義に対し、自分の名前が「頼義」の発音と同じであることを恐縮し、自分の「頼良」の名前を「頼時」に変えた。源頼義は陸奥守の任期中、安倍頼時から金品を搾り取れるだけ搾り取ると、任期切れ直前に阿久利川事件と呼ばれる陰謀事件で安倍頼時の跡取りである安倍貞任を罠にはめて罪人扱いし、安倍頼時を挑発して戦いが始まった(前九年の役)。「役(えき)」は「反乱」ではなく「外国との戦争」を意味する言葉であり、またこの重要な戦争の名前は「前九年の役」であるが、この戦争は「9年」とは全く関係ない。 前九年の役はその大半の期間において、安倍氏が優勢に戦いを進めていた。しかし、最終局面で源義頼が陸奥国の俘囚長,安倍氏の仲間である出羽国の俘囚長、降伏したエミシである清原氏の当主,清原光頼から参戦の約束を取り付けることに成功した。安倍依頼時を裏切った清原光依頼は清原軍を弟の清原武則に預け、清原武則率いる清原氏の大軍は、前九年の役の形勢を一挙に逆転させた。これ以前に安倍頼時はエミシの一部有力者の裏切りによって戦死していたが、安倍頼時の娘婿である位階が五位の軍事貴族、“多賀城のナンバーツー”である藤原経清は、“義兄弟”である安倍貞任らと共に滅亡した。清原軍を率いて参戦した清原武則は 藤原経清と安倍貞任を滅ぼしたが、その際に藤原経清の妻(安倍頼時の長女)が、清原武則の長男である清原武貞の側室にされた。このとき藤原経清の一人息子である藤原清衡が連れ子として清原家に入った。この藤原清衡がのちに奥州藤原氏の初代当主となる。また、安倍貞任の弟である安倍宗任は朝廷軍に早い段階で降伏したため処刑されるのを免れ、西日本へ追放されて生き残った。この安倍宗任の子孫が、“首相在任期間史上最長記録”をつくった元首相・安倍晋三である。 藤原 泰衡(ふじわら の やすひら)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。奥州藤原氏第4代(最後)の当主。藤原秀衡の嫡男(次男)。兄(庶長兄、異腹の兄)に国衡、弟に忠衡、高衡、通衡、頼衡がいる。 こうした朝廷側の差別に反発して起きた大事件が、砦麻呂の乱である。宮城県北部のエミシの豪族である伊治呰麻呂は天皇に服属して俘囚長となり、宮城県北部・伊治郡の領主となった。しかし呰麻呂は朝廷側の現地有力者である道嶋氏(宮城県牡鹿郡)らに侮辱されたため激怒し、東北地方の長官である陸奥出羽按察使・陸奥守・道嶋氏らを居城で殺害して反乱を起こすと、エミシ軍を率いて南下し、国府多賀城を攻撃して朝廷軍を撃破し、多賀城を焼き落とした。こうして朝廷への恨みを晴らした呰麻呂は、母国である北日本(岩手県)へ悠々と帰っていった(以後消息不明)。 東北一帯を支配していた豪族、奥州藤原氏第四代にして最後の当主である。, 生年は定かではなく、久寿2年(1155年)あるいは長寛3年(1165年)、三代当主・藤原秀衡の次男として生まれる。 奥州藤原4代、清衡・基衡・秀衡・泰衡. 数百騎の軍勢に対し、義経方は僅かに十数名。覚悟を決めた義経は妻子を手にかけ、自害するに至った。最期を遂げさせる為に武蔵坊弁慶らは捨て身で抵抗し、ことごとく討ち死にしたと伝えられる。, 義経の首級を納めた首桶は酒に浸されて鎌倉に送られ、泰衡は改めて頼朝に対して恭順を示す。しかし頼朝は「今に至るまで義経を匿ってきた事は反逆以外の何物でもない」とし、奥州藤原氏征伐に乗り出した。 泰衡はその後も助命嘆願を続けるが、頼朝は最後まで聞き入れる事なく、厳しくその行方を詮議した。最終的に泰衡は郎党・河田次郎を頼って比内郡贄柵(現在の秋田県大館市)まで落ち延びたが、9月3日、裏切られて殺害された。享年25(あるいは35)であった。, 河田はその後泰衡の首級を頼朝に届けたが、頼朝はこれを称賛するどころか「譜代の恩を忘れた八虐の罪である」として次郎を斬罪に処した。 ID: eun7z13PaN, https://dic.nicovideo.jp/t/a/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B3%B0%E8%A1%A1, 推奨環境:Edge, Safari, Chrome, Firefox, Opera いずれかの最新版, 『先生を消す方程式。』“義澤”田中圭、“筋トレ”シーンにネット歓喜「良い筋肉! (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); ©Copyright2020 歴史上の人物.com.All Rights Reserved. 中尊寺金色堂には3体のミイラが保存されており、それはかって栄華を誇った奥州藤原氏をつくりあげた初代藤原清衡、2代目基衡、3代目秀衡のものです。 そして、ひとつ首が入った首桶が残されており、それは長年の間、4代目藤原泰衡の弟である忠衡のものであると考えられていました。 藤原泰衡(ふじわらのやすひら) とは、平安時代 末期~鎌倉時代初期の武将。 東北一帯を支配していた豪族、奥州藤原氏第四代にして最後の当主である。. Copyright © 2020 歴史に残る平安時代の偉人たち. ここに「奥州合戦」が勃発。8月11日、阿津賀志山の戦いにおいて総大将・国衡が敗死。平泉は炎に包まれ、奥州藤原氏の繁栄を伝える建物も財宝もことごとく灰燼に帰した。 そもそも義経が奥州へ逃げたのは、頼朝と合流する以前の青年期、奥州藤原氏を頼って平泉に住んでいたことがあったからです。, 義経はここで当主・藤原秀衡(ひでひら)の支援を受け、家臣や馬などをもらったりしました。, 秀衡は頼朝から「京都に金(きん)や馬を送るときは、オレが仲介してやろう」という不躾な申し出を聞いており、心情的に鎌倉へは良い印象を持っておりません。, 当時の奥州は半ば独立国ですから、それを率いている身としては面白いワケがありません。, そこへ「息子」だった義経が頼朝から追われて亡命してきたので、いよいよ「その時」だと考え義経をかくまったのです。, 長男の国衡(くにひら)もいましたが、側室の生まれだったため正室から生まれた次男が優先されました。, 一度は父親の方針通り義経を庇おうとした泰衡は、鎌倉からのプレッシャーに対し、徐々に耐え切れなくなっていきます。, 「父上は義経を助けろって言ってたけど、アイツは所詮よそ者じゃないか! アイツのせいでうちが滅びるぐらいなら、先に討ち取って頼朝の機嫌を取ったほうが良いに決まってる!」, 我が身可愛さしか頭のないこの振る舞いに、藤原国衡と三男・藤原忠衡(ただひら)は唖然。, 「いやいや、父上の遺言はきちんと守るべきでしょ! うちを信用して頼ってきたような人を討ち取るとかアンタ正気か! この親不孝者!!」, その足で「もう義経はいないし、お前の居場所もねーから!」と忠衡まで討ち取ってしまうのでした。. 奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)は、前九年の役・後三年の役の後の寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)までの間、陸奥(後の陸中国)平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯に勢力を張った藤原北家の支流の豪族。藤原北家秀郷流を称した。, 奥州藤原氏の遠祖である藤原頼遠は諸系図によると「太郎太夫下総国住人」であったと記され、陸奥国(現在の宮城県・福島県・岩手県・青森県)に移住した経緯はよく分かっていない。しかし父親の藤原正頼が従五位下であったことと比較し頼遠が無官であることから平忠常の乱において忠常側についた頼遠が罪を得て陸奥国に左遷され、多賀国府の官人となったものと推測されている。ただしこの意見には、平忠常の乱では忠常の息子たちも罪を得ていないので頼遠連座はあり得ないとの反論がある[要出典]。, 頼遠の子・藤原経清(亘理権大夫)に至り、亘理地方に荘園を経営するなど勢力の伸張が見られた。また経清は陸奥奥六郡を牛耳る豪族・安倍頼時の娘を娶(めと)って縁戚関係を結び、安倍氏一門の南方の固めとなっていた。長久元年(1040年)より国府の推挙により数か年修理大夫として在京し、陸奥守・藤原登任の下向に同行し帰省したとの説もある。[要出典], なお奥州藤原氏が実際に藤原氏の係累であるかについては長年疑問符がつけられていたが、近年の研究では藤原経清について永承2年(1047年)の五位以上の藤原氏交名を記した『造興福寺記』に名前が見えており、同時期に陸奥国在住で後に権守となった藤原説貞と同格に扱われていることから実際に藤原氏の一族であったかはともかく、少なくとも当時の藤原摂関家から一族の係累に連なる者と認められていたことは確認されている[注釈 1]。また確たる史料はないものの亘理郡の有力者で五位に叙せられ、陸奥の在庁官人として権守候補であった可能性は高いと見られている[2]。, また、埴原和郎は、藤原氏三代の遺体を計測したデータを分析し、奥州藤原氏は東北人ではなく京都人と位置付けている[3]。, この分析結果は、奥州(東北地方)の藤原氏の歴代当主の妻が京都の貴族の娘等だったということでもよく判る。つまり、奥州藤原氏は代を重ねて京都人の女性と結婚する度に、京都人の血が濃くなっていったのである。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku. 生年は定かではなく、久寿2年(1155年)あるいは長寛3年(1165年)、三代当主・藤原秀衡の次男として生まれる。 「一時の命を惜しんで隠れる事鼠のごとく、退くこと貎(※子犬)に似たり」, だが度重なる頼朝からの圧力や時勢の前に膝を屈したのは止むを得ない事であり、単純に泰衡ひとりを責める事は出来ない。また泰衡は秀衡の死後1年半に渡り遺言を守りながら、いずれ来るだろう鎌倉方の軍を迎え撃つ為に軍備を整えている。 源義経が兄の源頼朝とケンカし、逆らったために殺されたという話は有名ですよね。. ただし、直接手を下したのは頼朝やその配下ではありません。. (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 検索ボックスにお好みのキーワードを入れて下さい。当サイト内の記事を探せます。 中尊寺金色堂には3体のミイラが保存されており、それはかって栄華を誇った奥州藤原氏をつくりあげた初代藤原清衡、2代目基衡、3代目秀衡のものです。 そして、ひとつ首が入った首桶が残されており、それは長年の間、4代目藤原泰衡の弟である忠衡のものであると考えられていました。 All Rights Reserved. しかし秀衡の死後、4代目当主・ 泰衡 は、頼朝からの執拗な圧力に屈し、義経を襲撃して自害へ追いやりました。 その後は結局、泰衡も鎌倉軍に破れ、 奥州藤原氏の栄華は幕を閉じた のです。 残った子孫は? しかし幼年期の様子については詳しい文献が残っていない。後に奥州藤原氏に庇護を受ける源義経の生年が平治元年(1159年)であり、歳はさほど離れていなかった事のみが伺える。, 文治3年(1187年)10月29日、秀衡の死去を受けて泰衡が家督を相続した所から、その名前が文献に上がる事となる。平家を討伐した義経が兄・源頼朝との不和により都を追われ、秀衡の庇護下に入っていた最中の家督相続だった。 この源氏兄弟の対立と深く結びついています。 ID: HfKkbB7e+s, 2018/08/06(月) 22:53:51 そんな中で泰衡が義経を急襲して自害に追い込んだのは不自然であるという指摘もあり、そもそも『吾妻鏡』自体が鎌倉方に重きを置いて正当性を訴える史料である以上、その真偽には疑問を呈するという研究者さえいる。, この辺りの評価・研究についてはWikipediaなどを参照すると面白いかも知れない。, 中尊寺金色堂に納められた泰衡の首級については、長らく弟・忠衡のものとされていた。しかし1950年(昭和25年)大々的な調査が行われた際、斬首されたと思しき形跡や、眉間と後頭部にある貫通痕が『吾妻鏡』での描写と一致する事などから、泰衡であると確認された。ミイラ化していたが保存状態は良好で、歯も綺麗に残っていたという。, その首桶には100個ほどの蓮の種が入れられており、彼の最期を哀れんだ何者かによって入れられたと推察されている。 例)帰蝶、織田信長, 本サイトはリンク報告不要です。 秀衡は自分の死後に頼朝が対立姿勢を深める事を予見しており、国衡・泰衡の兄弟が手を携え、義経を擁立・補佐して大将軍とせよと遺言を残した。またそれぞれに異心がないようにと三人を集め、誓いを立てさせて起請文を書かせている。, しかし文治4年(1188年)、頼朝は朝廷に対して義経追討の宣旨を出すよう要求。泰衡に対して義経の首を差し出すよう強く迫った。それが出来なければ直接鎌倉方より軍を派遣し、奥州藤原氏ごと義経を征伐しようという強硬な申し入れに対し、泰衡は「義経は所在不明である為、居所が判明次第出頭させる」と返したが、これに取り合う頼朝ではなかった。, その後も執拗に宣旨を寄越し、4月には遂に泰衡追討の宣旨が出るに至る。追い詰められ、膝を屈せざるを得なくなった泰衡は、4月30日、衣川館にあった義経一行を襲撃するに至る。 !」, 病気やケガでボロボロだった猫が一変……! 優しい飼い主に保護された猫が幸せな暮らしを手に入れる, 伸びた髪を切る時の「圧倒的な断捨離感」が人のために!? (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved. 記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。ご要望の際は、お問い合わせよりご一報下さい。. 奥州藤原氏四代泰衡は、藤原氏を滅亡させたダメ男だと、『吾妻鏡』などでは描写されています。本当に泰衡は小心で、武家の棟梁の器など、なかったのでしょうか。考えてたいと思います この源氏兄弟の対立と深く結びついています。 文治五年(1189年)9月3日に滅亡した奥州藤原氏と藤原泰衡。. その後、泰衡の首級は眉間に八寸の釘を打ち込まれ、柱に打ち付けられて晒しものとされた。しかし程なく平泉に戻され、生き残った近親者によって黒漆塗りの首桶に入れられ、父・秀衡の眠る中尊寺金色堂に納められた。, 悲劇的な最期を遂げた義経にとって直接の死因である事、父の遺言を裏切った結果一族の滅亡に至った事などから、古くから泰衡の評価は低いものだった。, 「阿津賀志山の陣が大敗したと聞いてあわてふためき我を忘れ」 関連記事 >>>> 「藤原清衡とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」. 藤原泰衡(ふじわらのやすひら)の解説。[1155~1189]平安末期の陸奥 (むつ) の豪族。秀衡の子。父の遺言で源義経をかくまったが、頼朝方の圧迫に耐えかね、衣川の館 (たて) に攻めて殺した。のち、頼朝に攻められて逃走中、部下に殺され、奥州藤原氏は滅亡。 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 ID: 0XLRFzZmwc, 2020/01/17(金) 15:02:14 この蓮は「中尊寺蓮」として現在も中尊寺境内の池で栽培されており、見所となっている。, 2018/07/03(火) 18:59:49 奥州藤原氏四代泰衡は、藤原氏を滅亡させたダメ男だと、『吾妻鏡』などでは描写されています。本当に泰衡は小心で、武家の棟梁の器など、なかったのでしょうか。考えてたいと思います 概要. 藤原泰衡(ふじわらのやすひら)とは、平安時代末期~鎌倉時代初期の武将。 奥州藤原氏の初代。 奥州藤原氏の初代・藤原清衡、二代目・藤原基衡、三代目・藤原秀衡、そして四代目・藤原泰衡です(このうち泰衡の遺体に関しては頭部のみ)。, 1950年と1994年、それぞれの遺体が調査されます。この記事では、その遺体調査の結果、奥州藤原氏に関して何がわかったのかご紹介します。. 源義経が兄の源頼朝とケンカし、逆らったために殺されたという話は有名ですよね。. 奥州の藤原氏は血縁的なことだけではなく、文化的にも京都の最新の貴族文化を積極的に採り入れていて、奥州藤原氏は東北地方に“首都京都に勝るとも劣らない貴族文化”を花咲かせた。, 東北地方北部(現在の青森県・岩手県・秋田県)は東北地方南部(現在の宮城県・山形県・福島県)とは異なり、弥生時代以降も続縄文文化や擦文文化に属する人々が住むなど、関東以南とは異なる歴史をたどった。東北地方のは中央政権の支配が及んでいない地方王国が存在していたが、“東北地方最大の平野”である仙台平野を支配する地方王国が朝廷に服属すると、宮城県仙台市に陸奥国の国府である郡山城(郡山遺跡)が造られ、郡山城には鎮守府もつくられたとみられる。陸奥国は全国の国の中で“最上位の国力と地位”をもつ大国であり、更に面積においても他国を圧倒する“日本最大の国”だった。のちに陸奥国から全国で第2ランクの国である中国の出羽国が、陸奥国から分離してつくられた。その後、陸奥国の国府と鎮守府は同じ宮城県の多賀城(多賀城市)に移転し、のちに仙台市には陸奥国分寺と陸奥国分尼寺がつくられた。この多賀城の時代に、朝廷による北日本の征服政策が推進された。朝廷からエミシ(蝦夷)と呼ばれた北日本に住む地方王国の住民は、陸奥国府の多賀城軍(朝廷軍)に降伏すると俘囚(降伏エミシ)として差別された。